ストーリーの心理学

Jerome Bruner “Making Stories”,2002    J. ブルーナー「ストーリーの心理学」法・文学・生をむすぶ ミネルヴァ書房 2007年

p.19

ストーリーは、問題を解くというよりむしろ問題を見つける道具である。

 

pp.19-20

イヴはアダムを誘惑して、「智慧」という禁断の木の実の味見をさせ、人間の真の状態がエデンの園からの追放をもって始まる。私の最も昔の記憶の一つは、父の書斎に架かっていたDürerの”Expultion”(『追放』)の白黒版画がその裏に宿す「真実のストーリー」を、父に語ってもらおうとした子ども時代の試みについてである——なぜこの怯えた二人がこのような様で逃げているのかと。しかし、神がアダムとイヴに善悪の智慧を禁じている部分になると、父の説明(主として神への不服従について)しようとする努力がためらいがちになるのがみてとれた。中世やルネッサンスのイタリアでは、日曜道化師(天才的道化芝居のDario Foの興行によって我々の時代には有名になった)は、人類の堕落についての説教の後に、教会を出る教区民に向かって「善悪を知ることはなぜそんなに悪いというのか」と問う時はいつも、そのように進んで口ごもってみせたという。

pp.27-28

学生たちは自分たち3人が考えだしたこの小さなドラマに、本人たち自身が度々驚いたと我々に何回か語った。彼らは一つのテーマにかかわる劇作への旅に出ることによって、自分たちが知っていると考えていたよりもいかに多くのことを知っていたかを意識したのではないかと思う——日常の方法と変わった方法をとることによって見出したのである——法律についてよりも実演することのもつ力について、つまりものごとを考えたり語ったりする日常的慣習の中に秘められているアイディアを表現するためのナラティブを演ずることの力について知ったのである。ナラティブは、たとえ法的なストーリーを読む場合でも、可能世界に開かれているように思えたのである。

p.36

ナラティブは、我々の計画や予期のもたらす不確実な結果を扱うための手早く柔軟な手段を我々に与えてくれるからである。AristotleからKenneth Burkeまでのの皆が言うように、ナラティヴにはずみをつけるのは、期待が外れた方向へ進展する場合である——Aristotleは事態の激変と呼び、Kenneth Burkeは大文字のTで示すトラブルと呼んだものである。

p.52

とりわけ法廷で許されている法的ストーリーの種類、語りの様式、それらを取り込む方法を取り扱うのである。ストーリーが当然のこととして受け入れられないのは明らかなので、それらはいかにして受け入れたれ、いかに規制され、制限され、評価されるべきなのか。この問への回答は、どのようにして通常のストーリーを法的ストーリーに変換するのかを説明する手助けとなるであろう。

法的ストーリーが法的に分析され、最終的に裁判官席あるいは陪審員席から評決される手順を我々は見なければならない。まず、「事実問題(matters of fact)」と「法的争点(points of law)」が重要な問題となるであろう。

p.134

かつて私がもっていた信念、心に関しては二つの相互変換可能な世界、パラダイム的な世界とナラティヴ的な世界があるという若い情熱的な信念は完全に誤りであった、と私は今では考えている。たしかに、思考のパラダイム的様式は、物事がどうあるかについてのよく形式化された命題の実証に依る。また、ナラティヴ的様式も世界に向けられるが、それは物事がどうあるのかではく、物事がどうでありうるかもしれないとか、どうありえたかもしれないということに向けられる。パラバイム様式は、経験主義的であり、宣言的である。つまり、属性yをもつxがあり、その範囲は属性zをもつというように。ナラティヴ様式は規範的であり、仮定法的である。

p.137

それは何を現実であるとするのかについての我々の観念は、我々が「現実」をいかにして知るにいたるのかについての着想に一致させるように作られるということである。私がここで示唆しようとしているのは、ストーリーは次のようなことをなすという点である。すなわち我々は、自身が「現実世界」について語るストーリーにあわせて「現実世界」を考えるようになるということになる。

p.144(訳者:解題)

ナラティヴ(narrative:「物語」「語り」と訳されているが、十分に適切とも言えぬので、ここでは原語のままとする)は、「個々の事象を、一つのストーリーの中に位置づけることによって意味づけ、そのストーリーをもって、世界や自己自身を代表させてゆくいとなみ(もしくはその所産)」と訳者は一応捉えておく。そしてそこでは、それを「作り手」が「聞き手(読み手)」に「語る」という行為としての性格が重視される。それは事象の「解釈」による「意味生成」の強力な手段であるとともに、一方ではその「文化」のもつ長年のフォークサイコロジーや文学作品として蓄積された共有の解釈手段の体系としても存在し、人々の日々の「生活」における行為を規定している。

 

社会を変える驚きの数学

合原一幸編著『社会を変える驚きの数学』ウェッジ選書

原稿のネタを見つけようと思って読んだ。つまらないわけではないが、残念ながら、ネタになるような話題はなかった。

系統樹

三中信宏 「系統樹思考の世界 すべてはツリーとともに」講談社現代新書

p.24

系統樹思考ではまずはじめに「何か相互に由来関係があるのではないか」という問いかけをします。

http://www.bmanuel.org/corling/corling2-0.html

系統樹はさまざまなもの(生物・無生物)を系譜に沿って体系的に理解するための手段です。系統樹思考とは、そのような体系的理解をしようとする思考態度であると定義できます。

p.62 歴史学者 カルロ・ギンズブルグ Carlo Ginzburg

資料は実証主義者たちが信じているように開かれた窓でもなければ、懐疑論者たちが主張するような視界をさまたげる壁でもない。いってみれば、それらは歪んだガラスにたとえることができるのだ。 (「歴史・レトリック・立証」みすず書房 p.48)

データという”歪んだガラス”を通して向こうを覗くとき、私たちはデータと理論のいずれに対しても「真偽」を問うことはありません。理論がデータと矛盾していれば「偽」、整合していれば「真」という強い関係を仮定するのではなく、もっと弱い関係を両者の間に置こうということです。

ここでいう「弱い関係」とは、観察データが対立理論のそれぞれに対してさまざまな程度で与える「経験的支持」の大きさを指しています。論理的な「真偽」と比較して、経験的な「支持」はデータと理論とのはるかに弱い関係です。しかし、それでもなおデータは、理論の相互比較を評決する場での発言権を保持し続けています。

p.65

十九世紀の哲学者にして記号論の創始者であるチャールズ・S・パースは、与えられた証拠のもとで「最良の説明を発見する」推論方法を、「アブダクション(abduction)ということばによって表そうとしました。

理論の「真偽」を問うのではなく、観察データのもとでどの理論が「よりよい説明」を与えてくれるのかを相互比較する——アブダクション、すなわちデータによる対立理論の相対的ランキングは、幅広い科学の領域(歴史科学も含まれる)における理論選択の経験的基準として用いることができそうです。

p.115

早田は、この世の万物が形成する網状ネットワークを踏まえた分類体系こそ、「自然な関係」に基づく「自然分類」であるという確信を抱いていました。(Hayata “The natural classification of plants according to the dynamic system”,台湾植物図譜・台湾植物試料 第拾巻、p.99 、 1921)

早田の論文には、きわめて印象的な彩色図一葉が掲載されています。ビーズ状に色分けされているのは「遺伝子」であり、それが複数の曲線によって結びつけられています。このような要素間の結合を多次元化したものが、早田のイメージした高次元ネットワークでした。

http://cse.niaes.affrc.go.jp/minaka/diary2004-12.html

興味深い点は、早田がこのようなネットワークをそもそも思いついたきっかけは、天台宗華厳経の教義をたまたま知ったからだと論文中に書いていることです。

p.122

系統樹思考と分類思考の背景について簡単に説明しましょう。

世界各地の先住民族は、身の回りの動植物相をそれぞれ独自の生物分類——民俗分類(fork taxonomy)と呼ばれています——をつくることで整理してきました。彼らの知識体系をかたちづくってきた民俗分類を通文化的に比較してみると、比較的層の浅い階層的な分類を共通して行っていることがわかりました(Brent Berlin “Ethnobiological Classification”,1992 Medlin and Atran “Folkbiology”,1999)。互いに行き来のない民族どうしがこのような共通性をもっていることは驚くべきことです。

さらにそのような民俗分類の形式は、十八世紀にスウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネが確立し、現在もなお広く用いられている科学的な生物分類(リンネ式分類)とも共通しています。つまり、階層的な生物分類は、けっして西洋文明のもとでのみ成立し得た社会的・文化的な構築物ではなく、むしろ私たち人間に生得的に備わっている分類性向(対象物を認知的に階層カテゴリー分けする性向)に適合した分類様式であるとことが示唆されます。このことは、乳幼児の分類行動を調べた発達心理学の研究結果とも整合しています。(略)

他方、系統樹思考には進化的な概念体系が必要になります。つまり、対象物の間に何らかの由来に伴う系譜関係の存在(生物であれば、祖先子孫関係)を仮定し、その関係に基づいて対象物を体系化するという思考法です。

Code is Law

Lessigの「コードは法である(Code is Law)」、それと罪刑法定主義にひっかけて、

やってはいけないことは法で定め、やっていいことをコードが定める。

ソシュール

ソシュール関連

加賀野井秀一『知の教科書 ソシュール』(講談社選書メチエ)

p.88

体系が辞項を存在させている−−価値

それぞれの辞項、それぞれの語は、それが属している言語システムのなかでとり結ぶ他の諸辞項との関係によって、はじめて価値をもつのであり、他の諸辞項とはちがうものとしてそこに存在し、意味をもつようになる。つまり、言語体系における辞項は、その辞項を含む体系を離れては考察することもできず、体系によってのみ、他の諸辞項によってのみ存在するのである。ソシュールは、「関係性」が「実体性」に先立つこのような辞項のあり方を、「示唆的(デイフエランシエル)」「対立的(オプジテイフ)」「関係的(ルラテイフ)」「虚定的(ネガテイフ)」といった一連の言いまわしで表現しようとしている。ようするに、言語体系は、実体的な要素の寄せ集めであるポジティブな体系とはちがって、個々の要素はそれ自体ではなんらの実体性をももたず、関係性のなかではじめて存在するようなネガティブな体系なのである。

p.92

シニフィアン:音 son /意味するもの、聞こえ /記号表現

シニフィエ:思考 idée  /意味されるもの、想念 /記号内容

p.96

私たちの日常的な言語観の背後には、かなり素朴な実在論が横たわっているのである。(中略) 言語は、その対象にレッテルとして貼りつけられるだけなのだ。

ソシュールは、世に蔓延していた先入観に対し、きっぱりとそれを否定する。

あらかじめ確定された諸概念などというものはなく、言語があらわれないうちは、何一つ分明なものはない。   (『講義』161/155)

シニフィアンを「ことば」、シニフィエを「もの」と見なすような解釈は、「あらかじめ確定された諸観念」を前提とすることによって、ソシュールの基本的な態度に抵触してしまうのである。

p.106

ソシュールは、このカップリングによって結合されるシニフィアンとシニフィエとの絆を形容して「恣意的」であるという。これは、「聞こえ」と「概念」との絆のことである、「ことば」と「もの」との関係ではない。ここが重要な点なのだ。シニフィアンとシニフィエとの絆は、あくまでもシーニュ内部のものであり、ラング内部の事実である。まずはこの言語内部での絆が生じることによって、ようやく二次的に世界が切り取られる。これをまちがってはなるまい。

p.144 メルロ=ポンティ

1947年以来、ソシュール言語学を読み込んでいたメルロ=ポンティは、やがて51年には国際現象学会で「言語の現象学について」という講演を行ない、翌52年の論文「間接的言語と沈黙の声」では、次のように書き出すことになる。

われわれがソシュールから学んだのは、記号というものが、ひとつずつでは何ごとも意味せず、それらはいずれも、ある意味を表現するというよりも、その記号自体と、他の記号とのあいだの、意味のへだたりを示しているということである。これら他の記号についても同じことが言えるのだから、言語は、辞項をもたぬさまざまな差異によってできているわけだ。もっと正確に言えば、言語における辞項とは、辞項間にあらわれる差異によってのみ生み出されるのである。

p.150 フーコー

おのおのの時代はおのおのの観念のシステムをもち、人々はそれに応じて見たり考えたりすることを余儀なくされている、とフーコーは考え、こうした文化圏や時代がつくり上げる独自の認識構造を「エピステーメー」と名づけることにした。

彼によれば、西洋史では、17世紀と19世紀との初頭に、二度の大きなエピステーメーの転換が生じており、その前後には、それぞれ「相似」「表象」「人間」の観念によって主導される三つの時期があるという。

p.157 ラカン

つまり幼児は、鏡像段階によって自他未分化のなかに自我というものを引きいれ、それによって当初の自分を疎外しながら自分自身になってゆく。自己像への同一化は自分と自己像との差異を含み、当然ながらにそこに他者像が並ぶ余地を生じさせることによって、他者との関係をも含むことになるはずだ。そんなふうにして、鏡像段階を経た幼児は、自己像に向ける自分のまなざしのなかに他者のまなざしを含みこみ、今度は、自分に向けられた他者のまなざしへの同一化のなかで自分の姿を見ながら、自我の形成へと向かうことになる。

だとすれば鏡像段階というものは、他者からのさまざまな働きかけをとおして他者から自己へと一種の歴史の粗描がもたらされ、以後、個々人のとらえどころのなかった無意識のうちに、過去と未来とが刻みこまれていくような構造契機でもあるだろう。そんなわけでラカンは、鏡像段階からはじまる幼児の自己形成過程を、無意識の組織化ととらえているのである。

p.164 ヤコブソン

ヤコブソンの研究は、ソシュールの「連辞関係」と「連合関係」という二分類が有効であることを再認識させてくれるとともに、ひいてはこの二つの関係を操作する人間精神の基本的なメカニズムを明らかにし、患者ばかりではなく、作家や詩人たちの行う高度な言語操作についてさえ、いっそうよく理解できるようにしてくれた。

連辞関係:「ソシュール」「は」「言語学者」「だ」などのはっきり表示された言語要素が互いにむすぶ関係

連合関係:「ソシュール」は「ヤコブソン」に置き換えられるし、「言語学者」は「男」に置き換えられる。このような、潜在しているこれらすべての置き換え可能な連想語の関係

p.174 ルイス・J・プリエート、エリク・ビュイサンス、ジョルジュ・ムーナン

「コミュニケーションの記号論」:信号(シグナル)というものを中心にして、手堅い伝達の研究をする。信号や交通標識などの狭い範囲に終始していてちっとも面白くない

p.178

ソシュールからバルトへの線は、こうしてさまざまな方向に延長され、私たちの身近な事物にも応用されながら、やがては、錯綜した現代の諸問題をみごとに整序してくれるにちがいない。ソシュールが開始した言語のモデルは、今や、言語学の領域をはるかに超えて、あらゆる人間活動のモデルとなっているのである。

ビデオゲームと犯罪

『ゲームと犯罪と子どもたち −−ハーバード大学医学部の大規模調査より』

ローレンス・カトナー、シェリル・K・オルソン著、鈴木南日子訳、インプレス、2009年6月

原題 ”GRAND THEFT CHILDHOOD” by Lawrence Kutner & Cheryl K. Olson

 

この本の流れ

子どもや若者の暴力的な犯罪がおこると、しばしば、ビデオゲームがその原因であるかのように言われる。著者らは、そうした言説、具体的にはさまざまな政治家や有識者の発言、学術論文などを見直し、科学的に因果関係が証明された論拠をもたないことを明らかにしていく。子どもたちへのインタビューからも、彼/彼女たちはゲームの世界は作り物であり、現実とは異なることをちゃんとわかっている子どもがほとんどであること。だからといって、ビデオゲームが全く影響がないと著者らは主張しているわけではなく、購入時に作品の内容がある程度わかるようにすること、保護者が関与すること、さらに、暴力的なゲームにのめり込む状況は子どもが問題を抱えているシグナルであるといった、ビデオゲームを受け入れて上で、現実的に対処する方法を提案している。

また、ビデオゲームが少年犯罪の元凶だとされる前には、やはりテレビが、映画が、マンガが、大衆小説が、悪者にされてきたのだ。いつの時代も「暴力」と「セックス」の欲求に溢れていた。新しいメディアはまずそこから広まってきたのだった。

著者らの研究プロジェクトは、1254人の子どもと500人の保護者を対象に、アンケートとヒアリングを行い、ゲームをする状況や、ゲームをする理由などを丹念に追うものである。並行して、ゲームをつくる大人の側の思惑、ゲームの審査制度、政治的な道具に使われるゲーム批判など、声高に叫ばれることがないが、むしろ重要な問題を指摘している。そして、保護者が子どもにできることを提案し、結びとしている。

 

ピックアップ

p.283 スタインバーグ(Laurence Steinberg)のコメントを引いて、

子どもは生まれたときから攻撃的なのです。就学前の子どもたちの別の子どもとの交流の50%は攻撃的です。しかし大半の子どもの場合、その後、時間の経過とともに継続的に目覚ましく攻撃性が減少します。問題は、どうすればこどもたちが攻撃的にならないかではなく、子どもたちの攻撃性を止める要素が何かということです。

p.291 暴力的等のゲームを未成年に販売またはレンタルする行為を刑事犯罪とする法律を違憲とする判決(MATTHEW F. KENNELLY, District Judge)

 法律の根拠とされた先行研究はいずれも論拠の乏しいジャンクサイエンスとし、同法を通過させた議員と、研究者の両方を激しく非難したうえで、

半世紀以上前にジャクソン判事が述べたように、「我々の社会のかけがえのない遺産は、各構成員が望んだとおり嗜好する制約のない法的権利である。思想統制は全体主義の専売特許であり、私たちは一切これを求めない。市民を錯誤に陥れないようにするのが政府の役割なのではなく、政府を錯誤に陥れないようにするのが市民の役割である」……。子どもの健全な心理的発達を促す上で、「危険」といわれる言論との接触を統制することが重要であるというなら、我々の社会では政府ではなく、両親および家族がその役割を十分果たしている」

p.304 子どもたちの肥満に関連して、

また、さまざまな理由から子ども時代の遊びの多くが、適当に近所の子ども同士が集まってする遊びから、組織化され、監督されたリーグによる、大人のスポーツの子ども版に変わっていった。空き地に集まった子ども同士でしていた草野球はリトルリーグに取って代わられ、地元のサッカーチームには4歳からでも入れるようになった。そうした組織化されたスポーツを途中でやめたり、もともと参加しない中学生の割合は高い。彼らはスポーツをする目的が、楽しむことから勝つことに変わったのに気づいているのだ。もしそのスポーツがうまくなかったら、たとえ楽しんでいても、続けいる理由はない。たとえばスケートボードのように例外的なスポーツもある。参加者はほとんどが自分自身の限界に挑戦していて、彼らがおもにやりがいを感じるのは、マスターできたと実感したときだ。また、ゲームの文化と同じように、スケートボード文化も、そのスポーツの初心者を助けることを推奨している。単に勝つことではなく、上達することに重点が置かれている点は、とくに韓国などの国々でゲームがスポーツとして楽しまれている原因のひとつといえるだろう。

 著者らの調査では、スポーツゲームをする子どもたちは、これらのゲームをしない子どもより多く運動していた。

p.326 保護者にできること

ゲームはとても普及していて、感情にも影響を及ぼし、社会的である。そのため、ゲームは、行動上の問題や精神衛生上の問題が現れる環境をつくりやすいのかもしれない。ゲームは問題を引き起こす原因というより、人々が問題を気づくきっかけになる。

たとえばこれまでとは違った友だちとつきあうようになったり、成績が急に下がったり、気むずかしくなったり、神経質になったり、十分に楽しんでいなかったり、失望感が続いていたりといったように、子どもの行動や成績、態度や感情に大きな変化が見られたら、それは治療可能な精神衛生上の問題の兆候かもしれない。また、いじめなど、現実世界での暴力の問題を反映している場合もある。しかし良性の発疹なら何の抵抗もなく子どもを医者に連れて行くのに、情緒や行動の問題について専門家の助けを求めることをためらう親があまりにも多い。

私たちの研究の最終結論をひとことに集約するなら、ほとんどの子どもや保護者はリラックスすることだ。暴力的なゲームの影響を懸念するのはよくわかるが、過去の人々が、当時まだ新しかったメディアに対して抱いていた、根拠のない不安と基本的には変わりないのだ、人間という種は、驚くほど回復力がることを覚えておいてほしい。